「もう別れよっか」


ぽつり、と呟いた言葉に彼はただ頷いてくれた。

お互いを傷つけあう恋愛なんて、終止符を打ってしまえばいいと思ったから。

なのに私、あの彼の名前をまだ呼んでいる。

彼をまだ、無意識に探してしまっている。

まだ、忘れることができていない…。






「ばれんたいん、」


どこに行ってもその言葉ばかりだ。

街中の女の子は嬉しそうに材料を買って見るからに可愛らしい。


「チョコレート、いかがですか?恋人にあげると喜んでくれますよ!」


売り子の女の人がにっこり微笑んでチョコを薦める。

綺麗にラッピングされたチョコレートが並んでいる。

そっと一つに手を伸ばす。

彼、チョコレート食べるかな。

そう思った時我に返ってチョコレートを手放す。


「ごめんなさい。また次の機会に」


軽く微笑みかけて早足でその場を去る。

…何を思っているのだろう。私は。

もう彼とは別れているのに。


「…宏光、」




北山宏光。

彼と別れてもう半年は経つだろう。

お互い仕事で忙しくて会えない日々が続いたのもあったけど、

別れた何よりの理由は宏光のファンの嫌がらせ。

ジャニーズに入っている宏光はジュニアの中では上位に入るくらいの人気。

ファンの嫌がらせがあっても可笑しくは無い。

私が怪我をする度に宏光は申し訳なさそうに目を伏せて謝るのだけれど。

このままじゃ殺されるんじゃないか、っていう妄想と不安に押しつぶされそうで。

いつもみたいに謝る宏光の顔も見ずに


「宏光と付き合ったせいで、人生が最悪」


、と言い放ってしまった。

きっと限界だったんだと思う。

増えていく包帯に、荒らされた部屋に。

精神的にも肉体的にも、宏光と付き合っていくのがとても酷だった。

そして宏光も、そんな私を見て罪悪感を感じていたのだろう。

私の言葉に、衝撃を受けたように表情を崩すことなくそうだな、と呟いたのだから。

そこから私が出した結論は「別れる」。

これ以外の答えがないようにも思えた。

宏光の少し頭上を見上げて、ふ、と視界に入れた手のひらは傷だらけで痛々しい。

宏光が弱々しく、と名前を呼ぶ。(それが私の決心を揺らがせる)

紛れもなく宏光のことが大好きで大好きで愛している。


「…でも、情緒不安定になりながらも宏光を選んで愛す自信がね、私は無いの」


「…うん、」


「愛してる。これは本当、よ。…宏光との将来だって何度も夢見た。」


「俺も…、となら一緒に生きていけるって、思えた」


「でも、もう無理…。無理、なの」


宏光の眼を見つめると、その眼が悲しみで揺らいでいることが分かった。


「もう別れよっか」


宏光はただ黙って頷いた。きっとこうなることは目に見えていた。

私の零れ落ちる涙に宏光が気がつかない様に、宏光に背を向ける。


「ごめんなさい…。弱くて」


震えた声で別れを告げて私は宏光の前から立ち去った。

その数日後、ぴたりと無くなった嫌がらせに、これで良かったんだ、と呟いた。




なのに今も宏光のことを想ってしまっている。

忘れられるはずがない、と言い張れるほどに私は宏光を愛していた。

理解した所で、何をしようというわけでもないけれど。


「…転勤、ですか?」


仕事中、上司に呼び出されて行ってみれば大きな話題。

転勤先は海外。

驚かないわけがない。


「海外で色々なことを学ぶのもいいだろう。新しい人生へと踏み出す、と思って。どうだね」


「…海外、」


別に日本に残りたいと思っているわけでもない。

私自身とても興味があるし、すべて捨てて新しい日常に足を踏み入れるのも悪くない。


「行きます、!」


そう返事をするのだって時間は掛からなかった。

上司は上機嫌に微笑んで出発は2月14日だ。と告げた。



今日も街中はバレンタイン一色。

それを見ながら家へと向かう。


「どうですか?チョコレート!大人向けの綺麗にラッピングされたチョコレートもありますよー!」


この前とは違う売り子。

にこり、と笑顔で指さしているチョコレートを手に取る。


「…一つ、買おうかな」


「ありがとうございます」


気がつけば、紙袋に入ったチョコレートを買っていた。


「…どうしよ、これ」


自分で食べる気も起きない。

友達にだって
あげようと思わない。

もちろん上司にも同僚にも。

それは買う前に彼の顔が思い浮かんだからなんだろうか。


「…鍵、返してないから」


誰も見ていたりしていないのに、言い訳のように理由を口にする。

鍵を返すついでに渡せばいい。

いや、テーブルにでも置いていこう。

転勤で海外へ行くことを手紙にでも書いて。

多分もう会うことはないだろうから別れのチョコ、とでも称して。

これですっぱりと宏光のことを忘れられるのなら。





14日。

飛行機の出発まではまだ有余がある。

宏光の家に寄るくらいの時間はある。大丈夫。

タクシーの運転手に宏光の家の住所を告げて向かう。

半年ぶりにきた宏光の部屋。

この時間帯本人は仕事だろうとわかっていても高鳴る胸。

鍵穴に鍵を差し込む。鍵は変えられてないみたい。


「…、」


かちゃ、と鍵を鍵穴から外した。

もしも、あの頃と何ら変わりない宏光の部屋へ入ってしまったら、多分私は引き返せない。

宏光への気持ちに制御がつかなくなって何時間も泣き崩れるんだ、と思う。

…止めておこう。


「宏光、ごめんね」


ドアノブにチョコレートが入った紙袋をぶら下げる。

中に鍵と手紙も入れて。

これが最後。

本当に、本当に最後。

宏光にちゃんと別れを告げるための。


「宏光…、大好き…ッだったよ、!」


さようなら。

心の中で何度も繰り返して宏光の部屋へと遠ざかる。

これでもう、私の恋は終わったんだ。

終わり方は最悪だったけど、きらきらしてた。

こんな恋心を抱かせてくれてありがとう…。宏光。







空港へは色々な人が見送りに来てくれた。

もちろん宏光はいないけれど。

それでもわざわざ足を運んでくれた皆の優しさが嬉しかった。

しばらくして、もういいよ、と
皆を促せば一人、また一人、と帰っていく。

皆が帰ったところで、一人呟く。


「行こう、かな」


ゲートへと足を向ける。


「これでもう会えないね。」


楽しいわけでも、可笑しいわけでもないのに笑みがこぼれる。

同時に溢れた涙に気がつかないふりをして歯を食いしばった。


「本当に本当に、最後。…宏光、」


親友とか、同僚とか、迎えに来た皆じゃなくて宏光の名前が自然と出てきた。

これほどまでに愛していたよ。

大好き。大好き。…大好きだったよ。


「さよなら」











「何勝手に決めてんだよ」


後ろから抱き締められる感覚。

回された腕。

瞬間に胸が熱くなる。

嘘、嘘嘘嘘…っ、

 まさ か


「ひろ、みつ」


「…なんだよ」


首だけ回したら視界の端に現れたきれいなきんぱつ。

体ごと、ちゃんと振り向けば、息を切らした宏光。


「なんだよ、これ」


手にあったのは私があげた手紙。


「なんだよ…最後って。なんだよ、俺を忘れるって」


「ひ、ろ」


「俺、…ずっとはとっくに他の男を愛してるって思ってた。」


かなしそうに、つらそうに。

顔を歪めた宏光はあの時の表情と同じで。


「…わたし、は」


「こんなもの残してさよなら、なんて言うなよ…!」


俺も愛してたんだよ。ずっと、ずっと。

そう言った宏光はもう一度私を抱きしめた。

もがくことも宏光の背中に腕を回すこともできず、ただ突っ立っていた。

もうとっくに私たちは終わっていると思っていた。

でも、想いあっていた。

求めあっていた。

こんなにも、愛し合っていた。


「宏光…、」


わたしも、あいしてたよ。

その言葉は嗚咽で掻き消されて、声の代わりに涙が溢れる。

宏光は私の涙を拭う。


が…遠くに行っても俺は待ってるから」


「でも、…ッ、私たち、また繰り返すかも、知れない」


また、傷付きあって別れるなんて、いやだ。こわいの。





「よわいから、…また同じことになるかも、しれないの、やだ、よ…。」


また、宏光と離れるのがいやだ。別れるのがいやだ。


「それなら…いっしょに、ならないほうがいい、よぉ」


「俺が…、守るから。が弱いなら、俺が強くなるから」


「宏光、」


「俺は…とこのまま終わることが嫌なんだよ…。」


「それが、ひろにとって…こわい、こと?」


当たり前だろ、そう宏光は呟いた。(その声が微かに震えているのは、気のせいじゃない、)


「…だから、俺らやり直そう」


「………いい、の?」


「それはの答えで決まるんだろ。…言って欲しいんだけど。の口から」


それだけで宏光の言いたいことが伝わって。

涙でぐちゃぐちゃな顔で微笑んだ。


「宏光…、大好き、だよ。」


そう伝えれば宏光は笑う。


「俺も、どうしようもないくらいに、…好きなんだよ、お前のこと」


宏光の指が髪に絡む。

撫でるように梳かす指がいとしい。


「もう、離す気ないからな」


遠くで、「あれ、北山宏光?」と言う声が聞こえた。

でも私たちはそれすら気にせずに唇を重ねた。

チョコレートのあまいあまい味がする、唇に。




その後、出発間際に「来年からは手作りチョコにしろよ」と笑った宏光に頷いて強く抱きついた。

私は遠くへ行くけれど、終わりじゃない。

私たちの2度目の始まりは甘いチョコの香りとともに訪れた。






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